海外で最初に見た忘れられない光景は、サンタモニカの夕日に沈む桟橋だった〜海外で仕事したいと思った経緯 その1

2/20から二度目のブラジルはサンパウロに出張に来ているわけですが、成田からデルタ航空アトランタ経由でサンパウロまで約35時間。
飛行機の中で、私はいつから海外で働きたいと思うようになったのだろう、と回想していたのですが、、

海外で最初に見た忘れられない光景は、サンタモニカの夕日に沈む桟橋だった。

海外と言っても、昔子供の頃に親の仕事の関係で住んだ中国以外、あまり海外に行った頃がなかった私が、自分から進んで海外に踏み出したのは2006年、大学3年生の夏だった。

今思えば大学で膨大とも思える暇な時間を持て余して私は、一時期国際交流のサークルに入っていた。そこで知り合ったアメリカから来た留学生がアメリカに戻ったので、久しぶりにそいつに会いに行こうかと。

その友達に「遊びに行って良い?アメリカのどこに住んでる?」ってメール送ったら「いいよ、カリフォルニアに住んでる。」って返事が来て、カリフォルニアってアメリカのどこだっけ?っていうレベル。
「カリフォルニアがどこにあるかよく分からんが、せっかくアメリカに行くんだから、ニューヨークとボストンにも行ってしまえ!」というノリで、友達と二人で成田⇒ロサンゼルス⇒ニューヨーク⇒ボストン⇒シカゴ⇒成田 という飛行機のチケットを予約した。
今思えばなんと大雑把な判断だったのだろう、、と思うが。

片言の英語でロサンゼルスにたどりつき、友達の案内でロサンゼルスのビバリーヒルズや美術館、派手なショッピングセンター、ハリウッドなど定番な場所を案内してもらったが、一番心に残ったのは、少し離れたサンタモニカの夕日に沈む桟橋だった。

ビーチの浅瀬から漆黒の海に進出せんとばかりに伸びる桟橋。その上から聞こえてくる人々のざわめき。夕日が落ち、少しずつ暗くなると漆黒の海の上で唯一の輝きを放つかのような桟橋の姿になぜか哀愁を感じ、とても記憶に残った。

ここ人達はどんな生活をしてるのだろう、いつも何を楽しみにして生活しているのだろう。俺がもしここに住んだら毎日この光景を見に来るのに。とかそんな事を思いながら、それぞれの街にそれぞれの人々の生活があって、それを少しでも知りたくて、ずっとこの場にいたい衝動に駆られた。

初めてニューヨークに足を踏み入れた時は、白黒のモノクロの世界から色鮮やかな新世界にでもやってきたのかと思った。

ロサンゼルスからニューヨークへ。空港に着いたのが深夜1:00で、誰もいない深夜の地下鉄を、ホステルまで友達とビビリながら何とかたどり着いた。

ニューヨーク初日は雨だった。イエローキャブロックフェラーセンターエンパイア・ステートを初めとする高層ビル群とヨーロッパのような建築仕様が交じり合った街並み。街に飾られた英語の看板。高級ブランドの代名詞となった五番街と派手なパレード。そして9・11の痛みを忘れんとばかりに粛々と存在し続けるグランド・ゼロと、その横で揺らめくアメリカ国旗。

テレビや、ファンだった今はなきZARDの「Don't you see」のPVの中でしか見たことない世界が目の前に広がっていて、その中を自分が今歩いていると実感できることが嬉しくて、ある種の自己満足に浸っていた。

そして実にいろんな人種がいた。南米系、ロシア系、中華系、韓国系、ヨーロッパ系・・・その国のメインストリートを歩く人種の多さが、国際都市としての成熟度を表す。東京との対比で、そんな多様的な街で自分の人生の幾ばくかの時間をここで過ごしてみたい、とう思うようになった。

そんなかんなで日本に戻ってからは、漠然と海外に対する興味が増し、観光から一歩進んでその街を知ることに興味が向くようになった。それが次の旅、ネパールで国際支援の現場を調査する旅に繋がっていった。長くなったので、続きは次のエントリーで。